池田修さんから名前を書いていただきました\(^o^)/
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感謝いたします。
こうして、つながりを感じていただけること感激です。
今、「わたしが生きていること」はわたしと関わってくださった全員のおかげと思っていますが、その時その時で、「ギュッ」とわたしの生き方の方向を大きく変えてくださっている方が振り返ると何人かいます。(たぶん、みなさんにもそういう方が何人かいらっしゃることでしょう)
まぎれもなく、わたしにとって池田修さんはその一人です。わたしにとってとてつもなく大きな人生の転換期を設定してくださった方の一人です。 せっかくですから、池田さんの思い出を少しばかり。
雑誌原稿を執筆することに遅めも早めもないと思いますし、そもそも、教員として雑誌に原稿を書くことがよいことなのかどうなのかということさえもあることでしょう。これは、わたしが教員になった当時の背景をお伝えすると少しは分かってもらえるかもしれません。
わたしの場合、教員採用当時は「教育技術の法則化運動(現TOSS)が最盛期を迎えておりました。わたしは法則化サークルに参加しなかったものの、この時代の教員の方の多くがそうだったようにたくさん参考にしながら、かつ、自分自身の学びを進めていきたいと思っていました。法則化運動が元気な時代は、シリーズの本や雑誌「教室ツーウェイ」(明治図書)で比較的若い先生(教員5年目あたりから)がドシドシ書かれる時代が始まっていました。そんな流れの中、月に10冊程度の教育雑誌を定期購読していたわたしは、実践原稿を書く方々から学びながらもいつかはわたしも雑誌原稿に書いてみたいなぁと淡い気持ちを持つようになるのです。 そんな背景から、わたしが教員になったとき(平成元年)は、わたしは3つの目標を持っていました。 1 (大学生時代続けていた)演劇を社会人になっても続けて、一般向けの演劇の公演をうつ。 2 (中学校時代に夢中になっていた)卓球を社会人になってから趣味として続けてみたい。 3 1回でいいから、教育雑誌に原稿を書いてみたい。
(結果的に、今のところ、なんと3つとも達成することができています。これだけでも幸せな人生を歩んできているのだわ……わたし。「演劇」と「卓球」はいつか機会あるときに書きますね。)
福島県二本松市という小さな街に住んでいた私は、もともと、自分のコミュニケーション技術、意欲、の無さが加わり、いろいろと学校教育に関して情報発信をしたり、情報共有をしたりしたいと思っていても、誰ともやりとりすることができませんでした。 当時はインターネットは一般的にまだ使われてはじめていませんでしたし。
そんな中、わたし自信がスキルアップしたり、情報交流をしたりすることができる場所としては、市販されている教育書や教育雑誌、そして、大都市中心に開催されている民間教育団体が開催するイベント(セミナーやフォーラムなど)でした。
当時も今も、自分から他者に話しかけることができないわたしがいます。
様々な教育イベント、セミナーに参加はするのですが、もちろん一緒に誘い合って参加するということはできず一人での参加でしたし、会が終わると逃げるように会場から出て帰途についていました。
その時、こんなわたしに声をかけてくださったのが池田修さんです。 この頃から、池田修さんは、全国的な中学校国語の著名な実践者でした。加えてディベートや全生研でもトップランナー的な位置でした。末端にいるわたしですらすごい方と知っていました。 そんな方が、ぽんにゃりしているわたしに声をかけてくださったのです。もう、びっくりです(ご存知の方はご存知のとおり、若い頃の池田修さんの姿形はとっても怖い感じで、他の方に比べても声をかけにくい雰囲気がありました……苦笑)。
知り合った頃は、恐れ多くて、「こんなすごい方がフランクにわたしに話しかけてくださっている。ばかにされないように、どのように反応しよう、どのように話しかけよう…」と田舎者のわたしは必死でした。ははは。これ、今もそんなに変わっていないなぁ。昔も今もめんどくさいやつです。自分。
でも、池田修さんに声をかけてもらったということをきっかけに、あいかわらず教育イベントは一人での参加でしたけど、ちょっとずつイベント後の懇親会に参加するようになります。もちろん、片隅でニコニコしているだけで懇親会に参加される話をただ頷いて聞くだけの私です。 でもですね、(池田さんは当時のことを覚えているかどうかわかりませんが)その都度、池田さんはわたしに声をかけてくださったり、話を振ってくださったり、はたまた、(今の話題について阿部はどう思っているのかと)意見を聞いてくださったりしたのですよ。いつもいつも感謝していました。
誰一人として知っている人、懇意にしている人は、いないけれど、このイベントの懇親会に出ると、たぶん池田さんが参加していて、その時間中、数回はわたしに話しかけてくれるに違いない……と思って(実際、池田さんはそうしてくださいました)参加していたことを思い出します。(話しかけてもらうことが前提で、話しかける努力をしていないわたしって……ははは。あきれますわ)
他にも、当時、上條晴夫さん、池内清さん、佐内信之さん、田村一秋さん、との出会いなど、わたしの第一期情報発信開眼期ともいえるときがこの1999年前後にありました。偶然、パソコン通信が一般的になりつつあり、詳しくはなかったけれども早めにICTの世界に入っていったのもよかったのだろうと思います。この方々もどんどんパソコン通信やインターネットの世界に入っていかれたので、ちょうどバーチャルな世界でもやりとりができる時期にみなさんと出会えたことは大きいですね。 この時を境に、「情報の受け手」だけだった自分が「情報の発信者」にもなっていきます。
そして、最初に書いた1999年の雑誌原稿につながるわけです。
たぶん、池田修さんとの出会いがなければ、池田修さんに懇意にしてもらわなければ今の自分は存在していないだろうと断言できます。 とっても、個性的で癖の強い池田修さんに感謝いたします(笑)。 池田さんが関西に行かれてから、出会う回数、話をする回数が減ってしまいましたね。池田さんが東京にいらっしゃる時は年に何回もお目にかかっていたのですけれど。
わたしは、自分の名前を書く時「幸」の最後の縦線がうまくかけなくて、右や左に傾いてしまうような感じになってしまい、どうもコマが転んでしまうような感覚に陥ります。どうしても、自分の名前を書くことが苦手です。
そんなわたしの名前を、池田さんは「最後の縦線でピシッと中心が定まって気持ち良い」とおっしゃってくださいました。
出会って20年以上、こうして、いつまでも勇気づけてもらって感謝いたします。
そういえば、わたしは池田さんからもらってばかりで、何もお返ししていないなぁ…。